SDGs時代の世界が注目する教育キーワード:非認知能力

お宅はまだ「受験戦争」「丸暗記」にこだわりますか?

偏差値や得点で争う教育はもう古い!

ダメ押しで、義務感で勉強をするのは、もうやめませんか?

SDGs時代の今、数値化しない、数値化できない学習能力「非認知能力」に、世界の教育界の関心が集まっています!

非認知能力とは

非認知能力とは、偏差値や点数などの数値で定量化することのできない、社会を構成する人間としての能力(人間力)の総称のことを指します。

例えば、粘り強く実行するための能力(自己能力)として、行動力・忍耐力・集中力・自己肯定性などがあり、他との関わり(人間どうしとは限らない)に関する能力(社会的能力)として、利他性(思いやり)・協調性・対応力・他者肯定性などがあります。

公立学校や私立の進学校、進学塾などでの従来のカリキュラムでは、数値化できる認知能力を育てることに極度に偏重しており、長年にわたり問題視されていました。道徳科が教科化されたときも、通知表でどのように評価するかが問題になりましたが、道徳科に関する内容は非認知能力そのものが関係するため、他の教科と同様に定量的に評価することはできないのです。このことも、日本の教育がいかに認知能力の育成に偏重していたかに気づかせることになったのです。

SDGsなどの持続可能性の取り組みは、地球上に他者とともに生きる各主体の自覚をもとにして、他者との関わりの中でどのように振る舞えばよいかを常に問いながら行動することが欠かせません。身につけた学問的考え方は、それらに非認知能力が伴ってはじめて、「生きる力」として活きてくるのです。これは、人やあらゆる動物がエネルギーばかり摂取してもダメで、ビタミンや無機質などを同時に摂取することが必要であったり、エンジンや電動機を活用するために、燃料や電力だけを供給してもダメで、潤滑油が十分にあり、動力伝達装置と協調して動作することではじめて活用できることととよく対応しています。

総合的な非認知能力が求められる里山での生活

里山での生活では、総合的な非認知能力が求められます。別の言い方をすれば、お金があまりなくても、非認知能力が高いと何とかなり、逆にお金持ちであっても、非認知能力が不十分だと非常に生きづらくなるのが里山の生活なのです。

生活が豊かになるかどうかは、自分自身の能力次第、真面目にやっていれば報われるのが、里山の生活です。銀鮒の里学校の教育は、昭和中期頃の里山の暮らしの考え方や価値観を基盤とした昭和のくらしESDに基づくカリキュラムを実践することにより、ごく自然に非認知能力が育つ教育です。

教育は気負わず、生活に溶け込んだ自然なかたちで効果が最大化します。だからこそ、里山の生活の場がそのまま学びの場となる銀鮒の里学校は、今話題の非認知能力を育てるオルタナティブ・スクールとして最良の選択といえるのです。

依存せず知恵で内発的に豊かさを生む教育

商業的なものにできるだけ依存せず、知恵を活かして内発的に豊かさを創造する里山の生活様式について、農業実習でのいくつかの例を挙げてみましょう。

広大な面と畑の草刈り

最近、広大な面と畑の草刈りといえば、草刈り機を使って済ませるのが当たり前のようになっています。しかし、草刈り機はありません。

納屋の奥には、古い立鎌と手鎌、砥石がありました。さて、どうしましょうか。

銀鮒の里流は「鎌を研いで、鎌で刈ってみよう!」

鎌などの刃研ぎも、鎌で実際に草を刈るのも、実際にやってみて、技術を修得することが大切ですが、燃料や替刃で費用がかさむうえ、排気ガスや廃棄物が多く発生する草刈り機への依存とは正反対に、一度修得した技術は一生活かせますし、他への応用も可能ですし、鎌も砥石も、非常に寿命が長く、廃棄物もほとんど発生しません。草刈り機だと、残しておきたい山野草や農作物も誤って刈ってしまうおそれがありますが、手刈りだと、柔軟にコントロールすることができますので、誤って刈ってしまう心配も少なくなります。そのうえ、手刈りはスポーツ感覚でできて、達成感も味わえます。いざ実際にやってみると、自身の技術や体力、根気次第で、草刈り機とほとんど変わらない作業スピードも実現できたりもします。

草刈り機でないと大変、やっていられないと思い込み、できないと決めつけることで、失うことがいかに多いか、原点回帰で機転を利かせてみることで、いかに新しい豊かさに気づくことができるかがよくわかる例です。

安心安全と収量安定、エシカルのすべてを満たす野菜の栽培

有機JAS規格を満たす有機農法でも、工業的畜産の苦痛の産物である鶏糞や牛糞を使うことが多く、病虫害の多発や抗菌剤の残留、薬剤耐性菌の問題なども…植物性堆肥しか使わない自然栽培は、聞こえはよいが、収量が不安定で、失敗するリスクも高いのです。疑問はあっても、そのまま従来の有機農法のやり方に従うべきなのでしょうか。

銀鮒の里流は「ヴィーガン農法」

困難でも、成功するまで自然農法に挑戦を繰り返すという選択肢もあるかもしれませんが、現実的には、その繰り返す失敗が、持続可能な農業に対する無力感をもたらす原因になることも考えられ、本末転倒になってしまう懸念もあります。農業は理想にそのまま応えてくれるくらい甘いものではありません。そこで大切になるのは、やはり農業の学問である農学への原点回帰です。いかなる作物に関しても、施肥技術が成育の成否を大きく左右するほど、肥料はきわめて重要になります。家畜の糞尿堆肥の倫理的・ほ場衛生管理上(病虫害)の問題も、植物性堆肥の栄養バランスの問題も、化学肥料の環境影響や安全性の問題を解決するにはどうすればよいか、その解決の道筋をつくるのが、肥料についての化学的棚卸しです。一度、「有機農法・自然農法でなければならない」とか「化学肥料はダメ」という思い込みはすべて捨て、化学肥料も含めて、使われうる肥料の構成成分について、化学的に整理し直してみます。すると、化学肥料とはいっても、問題があるのは、硝酸性窒素など一部に限られることや、有機肥料を含む窒素の過剰施肥が「水太り」による病虫害の多発や硝酸菌による硝酸性窒素の発生や水質汚濁の原因を招きやすいことがわかります。また、化学肥料とはいっても、にがりや天然の硫酸マグネシウム、ドロマイトのように、天然鉱物の主成分と一致するものも少なくないこともわかりますし、カルシウムやマグネシウムをしっかり与えると、病虫害に強い作物が育つだけでなく、カルシウムやマグネシウムの豊富な栄養的価値の高い野菜になるという、一石二鳥の利点もあるのです。そのような肥料の単一成分を、作物の成長にあわせて配合調整するというのも、農業のプロとしてのIPM(総合病虫害(防除)管理)や施肥管理では現実的な考え方なのだという気付きを得ます。さまざまな視点から熟考を重ね、有機農法でも自然栽培でもないけれども、化学的に正しい認識のもとでは、化学肥料は使ってもよい、化学肥料を含めた適切な施肥が、栄養価が高く安心安全な農作物を育てるという、持続可能性の観点から現実的な農法という結論に到達するのです。

やはりこれも、思い込みを捨てて、原点回帰で機転を利かせてみることで、いかに新しい豊かさに気づくことができるかがよくわかる例です。

でも、世界が注目のキーワードなら、他のオルタナティブ・スクールでも同じなんでしょ?

そのように思う人もいるのではないでしょうか。しかし、銀鮒の里学校のカリキュラムは、市民運動歴28年、日本では希少な筋金入りの市民運動家のひとりの発起人が、多くの経験や紆余曲折を経てつくられた集大成。だから、誰かがいざ真似をしようと思っても、そう簡単に真似をすることはできませんし、真似しようとしたところで、銀鮒の里教育の根底にある価値観のあまりの違いに、現代人の凝り固まった価値観が邪魔して、「こんなことできるはずがない」などと、きっと挫折することでしょう。そのようなカリキュラムをこどもたちが楽しく学べるようにプログラムとしてアレンジできるのも、長年の経験に裏付けされた銀鮒の里学校独自のノウハウや人間的背景があるからこそなのです。

商業主義まみれの現代の都会暮らしに疑問を持つ人なら、知れば知るほど、誰もが羨ましがるようなカリキュラム、でも、他には決して真似ができない。だから、他にはありそうでない唯一の選択。これが、(里山での)オルタナティブ教育が銀鮒の里学校でなければならない決定的な理由なのです。

まずは、銀鮒の里アカウントを取得して、オンラインでのコミュニケーションで、銀鮒の里学校の草の根の解決力を実感してみてください。

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