銀鮒の里教育概論
子どもとの接し方
地域の子どもはみんなで支える
わが子がかわいいというのは当然の感情ですが、だからといって、よその子はよその子で接しないというのは誤っています。逆に、わが子によその親や地域のおとなが、あいさつや指導で声をかけるだけで異を唱えるというのも誤っています。近隣や地域の人たちとの交流(おせっかい)は、昭和の後期くらいまでは当たり前にあった考え方ですが、昨今の都市部におけるマンション入居ラッシュで個人主義志向が強くなったことで生じたひずみと考えられています。これを裏付けることとして、実際に、ある地域のマンションの居住者団体では、「マンションでは、他の世帯とのあいさつは禁止すべき」だという、信じられないルールが提起されたほどです。わが子はもちろんのことですが、よその子どもであっても、わが子と同じように、近い将来、地域を支えだていく存在です。わが子・よその子という行き過ぎた意識はなくし、子どもはみんなで支えあって育てていくという発想に転換していくことが大切です。
思春期前の児童はあらゆる接触刺激を求めている
小学校1年生から4年生までの思春期前の子どもは、男女を問わず、あらゆる接触刺激を求めています。あらゆる接触刺激を求めるとは、両親や兄弟姉妹、同世代の友達だけではなく、地域のNPOスタッフなどの、出会うまでは全くの他人だった人とも心身両面での接触を求めるということです。しかも、接触できる機会さえあれば、純粋で積極的な子どもなら、子どものほうから求めてきます。このことは、銀鮒の里学校の数々の子ども向けの取り組みでも、何度も再現することを確認しています。
社会のいろいろな人と心身ともに接触の機会を持つことは、子どもの世界観を広くし、視野の広い寛大な人間に育てる効果があります。周囲の大人は、「よその子に接触するなんて、この世の中では…」と、マスコミ報道なども影響し、根拠もなく根強い思い込みをもち、過敏に反応しがちですが、この根拠のない根強い思いこみこそが問題なのです。
子どもと心身ともに接触の機会を持つということは、肌と肌とがふれあい、物理的に共有するスキンシップと、会話が通じ合う精神的共有の両方を含んでいますが、当然、子どもと接触の機会を持つには、ささいなことでもよいので、子どもの立場に立ち、なにか目的意識を持つことが大切です。心身の両面で、子どもの立場に立つには、子どもと同じ目線で、手のひらをあわせる(皮膚の接触面積ができるだけ大きくなるように握手やタッチをする)のが効果的です。とくに、おとなのサポートを必要とする、子どもの好奇心を刺激する知的なあそびは、そのことを互いに抵抗感なく行うとてもよいアイスブレイク手法といえます。
子どもの意識の男女差については、おとなはどうしても「(年頃の)女の子ははばかりがちでは」と思い込みがちですが、実際はその全く逆で、小学校1年生から4年生くらいまでは、むしろ女子児童のほうが積極的な傾向があります。思春期前をおてんば放題に育った女子児童は、思春期になっても、その子どもらしい積極性が保たれる傾向があるようです。男子児童についても、同様のことがいえるようです。ですから、とくに積極的に接触を求めてくる子どもは、男女を問わず、心身の両面で、しっかりと受けとめてあげましょう。
心ない不審者トラブルに巻き込まれないために
不審者トラブルは、子どもの視野が狭いことが高リスク要因になります。このことは、意外と知られていません。子どもの視野が狭い兆候としては、自然や文化など、教養的なことに対する関心が低いことがあり、当然、学業成績にも反映され、それもひとつの参考指標にはなります。とくに、商業主義的なコンピュータゲームやアニメに対する強い関心(接触)は、そのようにさせる主要因として指摘されます。
不審者は、子どもに合わせることで子どもが心を開く心理を悪用して子どもを狙います。ですから、不審者と興味関心を合わせない(ずらす)ことは、積極的防犯の観点から非常に重要なことといえます。やはり不審者の興味関心も、たいていの場合、コンピュータゲームやアニメのような低俗な方向に向いています。その逆を突き、自然や文化といった、教養的なことに関心を持ち熱中できる子どもに育てることができれば、不審者は、そのような子どもとは関心を合わせることができず、(不審者にとって)おもしろくないので狙わなくなるというわけです。もちろん、ICタグや携帯電話のような手抜き気休めの防犯ツールは一切不要であり、積極的防犯への関心からそらすという意味では、むしろ逆効果ともいえます。