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教育方針

     
こころ豊かで 建設的な意見がはっきり言える市民感覚を養う
こころ豊かで 建設的な意見がはっきり言える市民感覚を養う

銀鮒の里学校は、小学生と中学生を対象とした、男女共学・全日制のオルタナティブ・スクールです。一般的な公立学校や私立学校では修得できない、将来、農村定住の社会起業家になるために必要な、さまざまな「生きる力」を育む、他には類のない、日本型ESDの学校です。

暮らしに活かしてこそ意義があるESD

ESDという概念が提唱されるずっと以前の日本の昭和初中期の暮らしは、ESDそのものでした。炊事も洗濯も掃除も、家具も住まいも学校も、そのすべてがESDでした。それは、日本の風土と伝統的生活習慣に忠実で、知恵を絞り、その結果を着実に享受する暮らし方です。

しかし、アメリカなど海外から侵入してきた、日本の伝統的生活習慣とはかけ離れた商業的合理主義の論理によって、暮らしもこころも、この半世紀の間に、ずたずたに破壊されてきました。

決して難しいことではありません。日本に最もふさわしいESDのあり方とは、わが国の昭和初中期の暮らし方に、その多くを見つけることができるのです。そして、それに、最新の知見や技術の恩恵を賢く折衷することで、日本の生活文化は持続可能な発展を遂げるのです。

NPOや学校・行政などの実績づくりに終始するような、大人の自己満足としか思えない活動はいかがなものでしょうか。よいことを標榜していても、矛盾が生じていたり、暮らしやこころに根ざすものでなければ、意味がないといっても過言ではありません。だからこそ、銀鮒の里学校は、こころに響き、暮らしに息づく、力強く実効性のあるESDプログラムやプロジェクトにこだわります。それは、なにより、子どもたちの笑顔のため、そして、元気な明日のために。銀鮒の里学校は、ESDの真の意義について、研究的実践を通じて問いたいと考えています。

できないことの言い訳をしない、強く前向きに信じること

例えば、登山のように、人間というものは、ある目標を絶対に成し遂げなければならない局面に置かれれば、必ず成し遂げるべく、成就を信じ、あらゆる努力を尽くすものです。それは、これまで持っていた、「できない」という消極的な思い込みをも打破する力を持っています。

しかし、否定的な固定観念が先行し、あるいは、ボランティアなどということに甘んじて、「よいことなのだが、(現実的ではないので)できない」などという言い訳をたやすくする人があまりにも多いものです。それは、コンピュータゲームの「リセットボタンの心理」です。今日のアメリカナイズされた、一見して小奇麗な生活様式は、コンピュータゲームに象徴されるような仮想現実が常態化し、暮らしそのものも欺瞞に満ち、もはや仮想現実化し、現実逃避も許されています。しかし、この銀鮒の里学校では、このような固定観念への執着や仮想現実の消極的妄信、現実逃避は決して許されません。現実に順応して、抗うことなく向かい合う能力を身につけ、自然環境という現実世界や、そこから生まれてくる文化に美意識を見出す、日本のこころを大切にする教育、それが、銀鮒の里学校の目指す教育です。厳しいようですが、厳しさの中に、人としての真のやさしさは引き出されてくるのです。

できないことの言い訳をしない。建設的な提案を尊重し否定しない。
これは、銀鮒の里学校で円滑なコミュニケーションを図るためのルールです。
銀鮒の里学校の教育そのものに、対象年齢の概念はありません。
子どもを含めて、そのすべての主体が「教職員 兼 生徒」です。

ホリスティック教育理論について

ホリスティック(全体論的)教育理論とは、世界における教育・福祉先進地域である北欧諸国で重視・実践されている教育理論です。あえて教科などの分け隔てをせず、すべてに関連性(つながり)を見出す教育であり、とくに感性を重視する児童期(初等)教育で重要な意味を持ちます。例えば、季節の花のある風景ひとつとっても、感動を文章に表現する国語的アプローチもあれば、その花がどういう花で、どのような生態なのかを追究する自然科学的アプローチもあります。それらのアプローチを有機的に融合させることもできます。また、マインドマップでホリスティックなキーワードについての連関図を示せば、その具体的な意味がおわかりいただけるはずです。銀鮒の里学校の手作り教育では、「泣ける国語・文化教科書制作市民プロジェクト」をはじめとするホリスティック教育理論を重視したプログラムを実践することで、幅広い分野に対して一貫したつながりのある関心を持った、知性豊かな市民感覚を持った市民を育てていきたいと考えています。

気付き知り、考え判断し、自覚し実行する:熟考プロセスの形成

最近の都市部の市民運動はなぜ衰退の一途を辿るのか、その根本原因は、結果を重視し、過程を省略し、考えずして結果を得ようとする依存・退行的志向にあります。考えなくとも結果が得られますが、結果が思うようにいかなければ、思うようにいかなかった原因を考えずして、捨てる(あきらめる)か、他に頼り上塗り的な対応をするのです。この方法論は、欺瞞に満ちたソリューションを提供する営利企業に都合のよい方法論、すなわち、市民がアメリカ型商業的合理主義の餌食となる方法論です。この方法論の波及範囲については、公立学校などでの正課教育も例外ではありません。このアンチテーゼとなる方法論こそが、今日の北欧の市民教育であり、昭和初中期のわが国の生活そのものなのです。それは、まず、市民にとって好ましい(都合の悪い)結果をもたらす要因は何かに気付き、その実践(改善)方法について学ぶことです。そして、市民にとって好ましい結果を生むにはどのように行動すればよいか、複数の知識を統合して考え、判断すること(リテラシー)です。それから、その判断の結果が、自身の暮らしや社会にどのような意義をもつのかを自覚し、市民社会の一員として実行することです。思考プロセスの過程で知識不足に気付くことがしばしばありますが、これはフィードバック学習のモチベーションにつながります。この思考プロセス重視の考え方が、「自分さえよければ、それでよい」という、今日の都市生活にありがちな個人主義ではなく、知性豊かで、持ちつ持たれつ(ギブ・アンド・テイク)の相互支援を尊重する利他精神旺盛な社会意識(民度)の高い市民を育てるのです。