銀鮒の里学校の想い
Revive the pride of Japan by ESD!
銀鮒の里学校 開校運動ストーリー
銀鮒の里学校は、現代の学校教育では解決できない社会の諸課題の解決を目指す心ある社会起業家の育成を目指すオルタナティブ・スクールとしての開校を目指して、地道な開校運動を進めています。なぜ銀鮒の里学校の開校なのでしょうか、銀鮒の里学校が創造したい社会像とは何でしょうか。
日本喪失の半世紀
「気づいてみれば、日本の文化が音を立てるように崩れはじめていた。」
昭和49年、銀鮒の里学校の発起人は、白壁の町並みで有名な岡山県倉敷市の近代的な団地で生まれました。団地特有の環境もあり、地域で昔ながらのあそびを教えてくれるような大人の人もなく、川もコンクリート護岸のような、あそぶには危険を伴う場所が多く、昭和中期頃までのわくわく感をこどもだけで得ることはとても困難な環境でした。何を思ったのか、発起人は、幼少の頃から、どうしても気になってしかたがないことがありました。それは、異常なまでに世間にはびこる合成洗剤の山やテレビCM、そして、アメリカから入ってきたハンバーガーショップなのでした。その当時は、市民運動が盛んであったことは幼いながらも察知していたようで、合成洗剤で魚が住めなくなるであるとか、ハンバーガーでおなかが痛くなるとか、身体に悪いものが入っているだとか、ということが、いまでも発起人の幼い頃の記憶に残っています。そのため、発起人は、幼少の頃から、そのような合成洗剤やハンバーガーには不審感をもっていたのです。
団地暮らしで落ち着かなかったからか、発起人は両親からはいつも落ち着きがない厄介な子とみられていたようで、外であそびにくかったことも重なって、何らかのストレスを抱えていました。そんな幼少期の発起人のささやかな楽しみは、倉敷の中心部にあった、祖父母の家にあそびにいくことでした。市街地特有の狭小住宅でしたが、昭和初期の木造家屋は、こども心に落ち着くものでした。母も幼少の頃にあそんだらしいダイヤモンドゲーム(ボードゲーム)やトランプなど、祖父母とあそぶ、昭和の頃の素朴なあそびが楽しくてしかたがありませんでした。そして、夏になれば、こどもたちでにぎわう商店街の土曜夜市に繰り出すのが楽しみで、よくおもちゃ屋に行ったりもしたものです。発起人が小学生の頃から、まわりの様子はさらに変わっていきました。地元で長年親しまれてきたおもちゃ屋や昔ながらの商店が次々と閉店(廃業)し、商店街は徐々に活気を失っていったのです。休みになれば、近郊の大型ショッピングモールに買い物に行くのが、家族の過ごし方になっていました。そして、「ファミコン」ブームで、どこの家庭もファミコン(コンピュータゲーム機)を保有するようになり、発起人も、親からファミコンを買い与えられることになったのでした。これが、児童期の孤独感の増強や自己肯定感の抑圧につながっていたということに気づくこともなく、友達とあそぶのもファミコンで、というように、ファミコンをプレイする日が続いたのです。
発起人は、小学生の頃から空想癖のある落ち着きのない変人に見られていたらしく、当時は変人といえば、要注意児童の眼差しで見られていました。そのため、担任の先生からは、発起人だけ特別な連絡帳を持たされ、そこに、担任の先生が独断と偏見で気に入らないと思ったことを記入しては、「両親に見せなさい」という、いわば「見せしめ的な監視」のようなことが行われていました。今日の教育現場では、明らかに「教職員によるいじめ」に該当する問題行為がまかり通っていたわけであり、完全にこどものわんぱく心を抑圧されたかたちです。(ちなみに、その時代は、児童生徒への体罰もごく普通に行われ、社会的通念でも容認されていて、誰も「おかしい」とはいわない時代でした。体罰やハラスメント行為がよくないこととして、教育現場から排除されたのは、発起人が中学校を卒業してから後のことでした。)
周囲にクソ真面目で変な子だとみる風潮があることもあり、発起人はいじめの標的になっていました。小学校高学年の頃から、不登校に近いような状態となり、学校生活の半分くらいの時間を、校庭の花の世話などのボランティア活動に充てることもありました。発起人は小学生の頃から、植物や水生生物が好きで、人々の役に立てるボランティア活動も積極的に行ってきました。陰湿ないじめで打ちひしがれるなかでも、美しいものや活き活きしたものをみるのが好きで、喜びを分かち合える自己肯定感を高める場を、こどもなりに必死に求めていたのでした。まわりの人のためになりたいという思いは人一倍強いものがあり、委員会活動にも積極的に参加しました。
中学校に進んでも、小学校時代からのいじめは続き、不登校も経験しました。しばしば自殺願望も持つようにもなり、毎週児童相談所に通うようにもなりました。そのような状況でも、高校進学のためにも、なんとか授業にはついていき、好成績を保っていました。もはや、勉強することが、ストレス発散にもなっていました。中学校時代のときには、熱血理科教師との出会いもあり、このことも、発起人を自然科学(化学)の道に進ませる強い動機づけになりました。教科書の理科の内容では飽き足らず、自然科学に関するさまざまな疑問について、その熱血理科教師に投げかけては、自然科学への関心を高めていったものでした。数学の図形の証明問題で苦戦し、親切なマンツーマンの家庭教師との出会いで必死に学び、無事に高校合格を勝ち取ったことも自信につながりました。生徒会の委員会での活動にも積極的に参加し、給食委員長にもなって、食育の広報紙をつくったり、もったいないと思いつつ、残飯の処理の手伝いをしたものです。中学校時代は、自ら興味関心のあることを探求して学ぶことや、委員会での真剣なボランティア活動が自信の癒やしとなり、自信につながり、自殺の危機から回避させたことを学んだ時代でもありました。
発起人の高校の進学先は、いじめ回避のため、校区のない全県区の県立高校普通科にしました。それでも周囲からのいじめやシカトはありました。やはり付き合いにくい変人とみられていたらしいのです。高校の頃から、理科、とくに化学のおもしろさをより具体的に感じるようになり、この頃から、化学の本を読んだり実験をすることに夢中になりました。化学の法則性に気づき、独自の学び方で好成績を保ってきたことはいうまでもありませんが、他の教科の成績は振るいませんでした。国際理解に力を入れている高校でもあることから、当時の文化祭などではリオデシャネイロでの地球サミットが大きな話題になっていました。いよいよ環境の時代が到来したという確信を強くし、大好きだった化学を活かし、幼少時からのモヤモヤを吹き飛ばすこともできるような、環境保全型の化学の仕事に就こうとい強い動機づけとなりました。
大学は化学のほぼ一芸で入学できる大学の理学部化学科に進学し、農芸化学系の大学院への進学を目指し、夢中になって有機化学に打ち込みました。同期生でで唯一、有機化学の試験で満点をとり、IUPACの委員の歴任経験もある教授に褒められたほどです。ただ、有機塩素系溶剤が充満する研究室で、環境毒性が強い試薬を使って有機合成をすることは、発起人の健康面や環境面での信念からも耐え難く、化学情報的研究で学位を取得しました。学科外の生物科学科の講義を受講したり、その教授の研究室に足繁く通ってはアドバイスをいただいたりもしました。
その後、発起人は岡山大学大学院に進学し、修士課程では、従来の化学合成農薬に代替する防除剤の開発につながることを目指した植物由来の昆虫忌避物質の探索研究を、博士過程では、合成洗剤などに含まれる環境汚染物質の生態毒性と環境動態に関する研究を手がけてきました。将来の目標に向かって、一日中研究に打ち込める毎日。大学院時代が、発起人のこれまでの人生の中で最も充実し、輝いていたときです。博士号取得後、発起人にまたしても悪夢の毎日が訪れたのでした。
発起人は、環境研究の先駆けともいわれている横浜国立大学のポスドクを歴任しました。そのような輝かしい表向きの印象とは裏腹に、毎日、労働基準法完全無視の長時間労働を強制されたうえ、研究室の教授から何度も嫌がらせ発言や罵声を浴びせられるパワーハラスメントを経験したのです。黙っていましたが、人知れず休みの日には、悔しさがこみ上げて大泣きするくらいの極度のストレス状態に置かれていたのでした。そのような折に、関西で天然物のベンチャービジネスを立ち上げないかという話があり、ポスドクの仕事に1年で見切りをつけ、すぐさま関西に移転することになったのでした。
天然物のベンチャービジネスでは、研究開発を手がけましたが、その経営者がいきなり、冷夏による不振を理由に「会社をたたむ」と言いだし、わずか半年で社員全員が追い出されたのです。その後、そのベンチャーとの取引がある化学企業に転籍しましたが、正義感が強すぎるという理由で一方的に解雇を宣告され、その後は派遣労働も経験しました。いうまでもありませんが、会社都合でいつ追い出されるかわからないという非常に不安定な状況が続いたのです。その後、化学系企業の正社員として、石けん製品等の研究開発の業務に従事することになりましたが、経営者や従業員から、あまりにも目標が高すぎると妬みの対象とされ、いじめにも遭ったのです。一時は死の淵を彷徨うこともあったほどでした。
さすがに殺されかけた後の心的外傷は深く、どうしようもないことから、強い自殺願望もありましたが、市民運動経験による揺るぎない目的意識が、それを踏みとどまらせてくれたのです。もし、市民運動をやっていなけければ、発起人は、ずっと前にこの世を去っていたことでしょう。4ヶ月ほどの辛く何もできない日々が続きましたが、その後、石けんでの社会起業をしようという行動を起こしたのでした。しかし、石けんとは何か、石けんのよさについて思っているほど世の中の関心は高くなく、難航をきわめました。そのような苦境のなかで、2015年の春、発起人は、ある決意をしたのでした。それは、
まず、世間の価値観を建て直し変容させなければ、何も始まらない。それには、小中学生の教育が大切だ。学校をつくろう。
という、一見して無謀とも取られかねないような一大決意なのでした。折しも、この時代は、ESDやSDGsという、持続可能性の新しいグローバル概念に誰しも関心を持たずにはいられなくなり始めた頃。この動きを追い風にしない手はないと考えたのでした。
立場が逆転したいま、小学校・中学校時代の自身の辛い経験を、現代のこどもたちに再びさせてはならない。自身の世代が理不尽で辛い経験をしてきたからこそ、時代を言い訳にせず、現代のこどもたちが笑顔の毎日を過ごせて、将来に希望を持てる、そんな学校を作らなければ、明日の日本は明るくない。
そのように決意したのでした。そのような苦難の約半世紀を経て、さらには、2020年には人類が未だかつて経験したことのない新型コロナウイルス禍による全地球規模のパニックと、さらなる変革を余儀なくされています。アフターコロナの新時代創造は、価値観の抜本的変革から。約半世紀の喪失世代のハングリー精神で鍛え上げられた揺るぎない想いを強い起動力にして、これまでになかったような、人間性エリートを目指せる学校づくりを進めていく所存です。
ロスト・ジェネレーション年表(1970〜2022) | |
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西暦 | できごと |
1970 | 大阪万博開催。この頃、千里ニュータウンでの団地居住がブームになる。 |
1971 | 東京・銀座に日本におけるマクドナルド1号店が開店 ※この頃から、小学校などの木造校舎・木の机といすが減りはじめる。 |
1972 | 1969年創業の日本サンホームを米国P&Gが買収、この2社と伊藤忠商事が資本参加し、大阪でプロクター・アンド・ギャンブル・サンホーム(現在のP&Gジャパン)が創業 |
1973 | 大阪府豊中市でアミューズメント機器メーカーのコナミ工業(後のコナミ、現在のコナミホールディングス)の法人設立(前身の創業は1969年) |
1974 | 岡山県倉敷市で銀鮒の里学校の発起人が誕生 |
1977 | 日本固有の淡水魚アユモドキが絶滅危惧種に指定(現在は琵琶湖と岡山県の一部の地域にのみ生息) 兵庫県川西市の木造校舎の小学校(市立黒川小学校)が無期限休校に |
1980 | 学習指導要領改訂により、小学校での第一次ゆとり教育が開始(授業時間45分・学習内容の削減) |
1981 | 学習指導要領改訂により、中学校での第一次ゆとり教育が開始(学習内容の削減) |
1983 | 任天堂ファミリーコンピュータ(通称:ファミコン)発売。ファミコンブームが起き社会問題化 千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開業 |
1988 | セガメガドライブ(家庭用商業ゲーム機)発売 |
1989 | 日本マクドナルドなどによって、量産型玩具大量販売のフランチャイズ・チェーン、日本トイザらスが創業される |
1991 | 日本におけるバブル経済崩壊 SNK(※かつて大阪府吹田市にあったゲーム企業;廃業)ネオジオ発売。ゲーム容量が100メガビット(=12.5MB)を超える暴力シーンを含むゲームソフトを販売 |
1992 | 学習指導要領改訂により、小学校での第二次ゆとり教育が開始(小学校1・2年の理科・社会を廃止し、統合教科「生活」を新設) |
1993 | 学習指導要領改訂により、中学校での第二次ゆとり教育が開始 |
1994 | SONYプレイステーション(初期機)発売。このころから、日本のものづくり不況が深刻化 |
1995 | 阪神・淡路大震災発生(1月17日) Microsoft Windows 95発売(パソコンとインターネットの急速な普及が始まる) |
1996 | シーア・コルボーン著「奪われし未来」初版が出版。(日本語版は1997年に出版)この頃から、内分泌撹乱物質(いわゆる「環境ホルモン」)の学術的議論が激化、化学業界に変革を迫る |
1999 | クロメダカが絶滅危惧種に指定される |
2000 | 2000年問題 全国的な傾向として、この頃から農村部の過疎化が深刻化(例:大阪府能勢町で統計史上最多の人口を記録(14,186人)、以後急減) 都市部におけるマンション建設ラッシュが始まる |
2001 | 米国同時多発テロ事件発生(9月11日) 大阪市此花区にユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開業 |
2002 | 学習指導要領改訂により、小・中学校での第三次ゆとり教育(狭義のゆとり教育)が開始(小学校算数の円周率を3.14から3に簡略化したことなどで物議を醸す) |
2004 | ユネスコによる「持続可能な開発のための教育の10年」に関する決議案が採択、ESDの定着に向けた試行的取り組みの10年が始まる |
2008 | Apple iPhone発売(スマートフォンの急速な普及が始まり、スマホゲームやSNSいじめ・誘拐の問題も表面化) アメリカに端を発したリーマンショック(全世界的な金融危機) |
2011 | 東日本大震災発生(3月11日) テレビ電波の地上デジタル完全移行。(この頃から、テレビ離れの動きが始まる。) |
2012 | 米国P&G社製ダウニー(輸入品)のネット通販をきっかけにした強香柔軟剤ブームが到来。柔軟剤関連成分が化学物質過敏症発症の主因になり社会問題化 欧州連合(EU)加盟国における、養鶏でのバタリーケージ使用の禁止。(この頃から、全世界的に動物福祉の考え方に革命的変化が起こる) |
2014 | 持続可能な開発のための教育の10年の試行的取り組み期間が終了、持続可能な開発のための教育(ESD)に関するユネスコ会議が岡山市と名古屋市で開催。 |
2015 | 銀鮒の里学校の開校運動を開始 日本における事実上のESD元年(翌年に、文部科学省と環境省により、ESD活動推進センターが設置) |
2016 | 米国FDAが有機塩素系殺菌剤トリクロサンの薬用石けん等への配合を1年以内に禁止すると発表(9月2日;日本の厚生労働省も国内追随策を30日に発表) 米国ナイアンティック社がスマホARゲーム「ポケモンGO」を日本国内で配信開始。交通事故死傷者を出すなど社会問題化 リオデジャネイロ五輪の閉会式で次回開催国の日本の首相(当時;安倍晋三)が任天堂のゲームキャラクターのコスプレで現れ、世界の失笑を買う |
2017 | アメリカとイスラエルがユネスコから脱退 ニンテンドースイッチ発売 笑い鮒の活動を開始 店頭からトリクロサン含有の製品がほぼ姿を消す |
2018 | ドジョウが準絶滅危惧種に指定される |
2019 | 日本政府が推進する原発輸出政策の失敗が相次ぐ。世界の持続可能性の動きへの日本の立ち遅れが鮮明に 官公庁・メディア・企業などにもSDGsの取り組みが広く浸透し始める WHOが「ゲーム障害(Gaming Disorder)」を国際疾病として正式に認定 商業ゲームプレイの生業化や正式なスポーツ競技化の議論など、「eスポーツ」の過熱が社会問題化 |
2020 | 全世界規模での新型コロナウイルス禍が発生。 事実上の日本製ブリキ玩具(ポンポン船など)の販売終了 香川県で全国初のネット・ゲーム依存症対策条例が施行 全世界の再生可能エネルギーによる発電量が原子力発電を超える |
2021 | 銀鮒の里学校(ふなあんグループ)が能勢でオープンソース農業の取り組みを開始 史上最悪の高病原性鳥インフルエンザ禍で、日本国内だけで約1千万羽の家禽が殺処分 地球温暖化防止や動物愛護、食志向の多様性の観点からの純植物性のヴィーガン対応食材開発(フードテック;食品化学技術)の商機が到来 金融などの分野でESG(環境・社会・企業統治)信用を重視する動きが本格化 文部科学省のGIGAスクール政策で公立学校におけるパソコン・タブレット(児童生徒用個別端末)の普及が進む 菅政権下で第2回目の東京オリンピック・パラリンピックが延期開催、日本のサステナビリティの取り組みの遅れが露呈 |
2022 | マイクロソフトが米国商業ゲーム大手アクティビジョン・ブリザードを約7.9兆円で買収、事実上の商業ゲーム会社への業態転換へ ロシアによるウクライナへの軍事侵攻 休校から45年で、兵庫県川西市の木造校舎の小学校(市立黒川小学校)の廃校が決定される |
まじめな取り組みがきちんと評価される社会をめざして
まじめに取り組んだことが笑われる人がいる。銀鮒の里学校の発起人もその一人です。
笑われたっていい。正しいと信じることは、自信を持って正々堂々と貫き通してほしい。人の多様性を認め受けとめる銀鮒の里学校には、そのような想いがあります。今、笑われる人こそ、将来の真のリーダーになれる。外で笑われても気にしない。少なくとも銀鮒の里のコミュニティのなかでは、個性の強い人ほど安心して何度でも挑戦できて、正々堂々とやっていける。そのような学校でありたいと考えています。くそまじめで個性が強く笑われ続けた発起人だからこそ、つくることのできる居場所があります。どうか安心して頼っていただきたいと、銀鮒の里学校は願っています。
学校づくりそのものがこどもの誇りでありたい
こどもは大人の背を見て育つといいます。だからこそ、銀鮒の里学校は、学校づくりからこどもにとって模範になる存在でありたいと考えています。
教材もカリキュラムも可能なかぎり全て手作り。商業的なものに頼らず、たとえ不器用であっても、手作りのぬくもりをこどもたちに分かち合える、ガリ版で先生が丁寧に教材をつくっていたような昭和中期頃のようなあたたかさがある学校でありたい。あたりまえのようであたりまえではない。気がついてみれば、公立学校のような学校ではなくなっていた。だからこそ、銀鮒の里学校は、こどもの情緒に響き、「銀鮒の里学校の先生に出会えてよかった」と、生涯誇りに思える、そのような学校づくりにこだわりたいと考えています。
成長著しいころの日本の活気をもう一度
一時は世界のどん底をも経験した日本。その日本が立ち上がり、成長できた原動力は何であるか、考えたことはあるでしょうか。
全世界的視野でみれば、豊かなくらしは、決してあたりまえではないのです。
今日の日本で、いろいろな意味であたりまえに豊かなくらしができているのは、四季の自然に恵まれ、四季にうまく寄り添いながら、粘り強く生きてきた日本人の真面目さ、実直さによっています。今日の先進国としての日本が築き上げられてきたのは、大正時代から昭和初期と、第二次世界大戦後の1950年から1970年頃までの人々の努力にあると考えられています。大正時代から昭和初期にかけては、基礎自然科学の分野において、戦後の期間は、国内の産業、とくにものづくりの分野で頭角を現し、国際競争に打ち勝ち、目覚ましい発展を遂げてきました。
ところが、1970年代から約半世紀もの間、日本社会は、欧米の商業的勢力による静かな支配という名の「麻酔」をかけられ、見た目の豊かさに酔いしれるうちに、日本人の粘り強さ、真面目さ、実直さの魂を抜き取られていったのです。いつしか日本人は、日本の民俗文化や技術力、自然に対する誇りや畏敬の念を忘れ、欧米から持ち込まれた、商業的勢力にとって都合のよいような文化に染まっていったのです。
商業的な誘惑から解放された、自由で丁寧に生きるための礎を教育で再構築することで、成長著しい頃の日本の活気をとりもどしたい。銀鮒の里学校には、そのような揺るぎない想いがあります。
昭和の昔あそびを絶滅の危機から救いたい
気づいてみれば、昔あそびを教えることのできる大人も、昔あそびをするこどもはほとんどいなくなり、昭和の頃にあたりまえだったような昔あそびは絶滅の危機に瀕しています。昭和30年代に小学生だった世代は現在70代。今、昭和の昔あそびを継承しないと、誰も気が付かないうちに自然消滅してしまいます。こどもにとって最も身近なあそびから、昭和のころのあたたかく丁寧なくらし方や、それらからもたらされる哲学的考え方を日常的に、自然に会得できる環境をつくりたい。銀鮒の里学校が昭和のくらしESDに力を入れる根源となる想いが、そこにはあります。